走らない人が走り始めるとき (15)

2度めのフルマラソンを走る人 (2021年3月2日)

フルマラソンを走るというというのは極めて特殊で非日常的な行為である。今回私が参加したような参加者数十人で河川敷の周回コースを走る小規模大会だと、その特殊性が更に強まるのかもしれない。ポストコロナ時代に入ってから何千人、何万人もの参加者が沿道に並ぶ人々の声援を受けて走る、という大きな大会が開催されなくなったが、おそらくそういう大きな大会で走ると、今回私が書いたようなレポートは決して生まれないと思う。

と、前置きをしてしまうくらいに、内省的で抑制的で禁欲的で地味なレポートになっていることに自分で読み返して気づいたのだ。先日同様の大会に単身参加した友人が、その大会での経験を「精神修行のようだった」と評していたが、まさに同じ気持ちになった。よく大人になってから「2泊3日の禅寺修行体験」みたいなのに参加される方がいるけれども、多分それと似通っているのではないか。そういう意味で、これまでフルマラソンを経験されたことのある方々には、この「小規模大会で河川敷をぐるぐると周回するマラソン」を一度試されることをお薦めしたい。きっと何か神秘的な体験や、ひょっとするとある種の悟りの境地に達することすらできるかもしれません。

前口上が長くなってしまいましたが、二度目のマラソン体験記です。しかし、まことに本末転倒なことだが、ひょっとしておれは後でレポートを書きたいがためにマラソンを走っているのではないだろうか。


マラソン大会前日は、午前中に最終調整の軽いランニングを5キロ余り。酒を抜くのはストレスになって逆に良くないと思い、いつもの土曜日どおり昼あたりからビール数缶、夕食はスタミナをつけようとニンニクとショウガをたっぷり入れた餃子を作って食べた。食後にアイリッシュウィスキーとバーボンを数杯。ただ明日の朝は早いので早々に切り上げて夜9時には寝た。

翌朝はきっかり5時に起床。2階のリビングに上がって、昨晩余った味噌汁があったので納豆ご飯を作って温泉卵と共に食す。次いでサトウの切り餅2つを粒あんをかけて食べ、ダノンのいちごヨーグルトでしめた(フルマラソンを走ると3000キロカロリー以上消費するので、とにかく朝食をたくさん食べておくのが重要なのだ)。いつものように順調に排便。両乳首に絆創膏を貼り(これ無しにフルマラソンを走ると擦り切れてケガをする)、左足親指横にできたマメのところにも絆創膏を貼り、ウェアを身につけ、7時前に家を出た。

駅前のコンビニでポカリスエットとバナナを買ってから東急池上線に乗り、車内でポカリスエットを少しずつ飲みながら五反田へ。五反田で都営浅草線に乗り換えて印旛日本医大行きの電車に乗る。印旛日本医大って一体全体どこにあるんだろうなどとぼんやり考えながらまたポカリスエットを少しずつ飲みちょっとウトウトしているうちに都営浅草線は京成線に変わっていた。そして目的地の四ツ木に到着。ここまで1時間ちょっと。

しかし四ツ木って一体東京23区の中の何区なんだろう。まったく知らない駅名だ。ただ駅の壁という壁がひたすら『キャプテン翼』で覆い尽くされている。ひょっとしてキャプテン翼の作者が四ツ木出身なのか。とにかくオシッコしておこうと駅のトイレに入り(キャプテン翼の壁はすごくきれいだったがトイレの壁は汚かった)、改札を出て荒川の河川敷へ向かう。15分ほど歩いて会場の堀切水辺公園に着いた。8時20分。受付開始は8時半からで、フルマラソンのスタートが9時半だ。今日は朝7時の気温が2度だった。今もまだ6度。ありがたい。前の大会はけっこう暑かったからなあ。

荒川越しにスカイツリーが見える。そして公園内に掲示された標識によると四ツ木は葛飾区にあるらしい。そうか。そういえば葛飾区って学生時代に柴又の帝釈天に観光に行ったことがあったけれど、あれ以来行ったことなかったから今日で2度目だな。などと考えているうちに受付が始まったようだ。

まずは検温と体調の自己申告、連絡先記入といった新型コロナウィルス感染が始まってからの全てのイベントのルーティーン。その後ゼッケンを受け取る。今日フルマラソンを走る人は58人だそうだ。そりゃまた少ないな。初マラソンだった昨年10月の「ロケットマラソン東京大会」でさえ数百人くらいはいたんじゃなかったか。

運営側が用意してくれたブルーシートに座って家から持参したゼリーとコンビニで買ったバナナを食べていると、今回の大会に誘ってくださった以前の会社の先輩Kさんがやってきた。本当はもう一人、元同僚I君も参加予定だったのだが太腿の故障で残念ながら見送り。中年ランナーは他人よりも自分自身との戦いなのである。

準備運動をしたり着替えたりトイレに行ったり(小さな大会なので全く混んでいない)雑談しているうちにスタート時刻の9時半があっという間にやって来た。あっ。Bluetoothのイヤフォンを耳に突っ込むのを忘れるところだった。あぶないあぶない。私は普段走りながら音楽は聴かないのだが、さすがに単調な河川敷を40キロ以上も走るのは音楽でも聴いてないとつらいだろうと初マラソンの時に使ってみたら意外と良かったので今回も同じイヤフォンを持参していたのだ。耳に装着して、音楽を再生するために右のイヤフォンの背中をタップして、あっ。しまったGarminの方のランニング記録の準備もしないと。げげげ。スタートまであと30秒だって。GarminがGPSを掴むまでにけっこう時間がかかるんだよな。「10秒前、9、8、7、」。まだGPSを掴めない、焦焦焦。「2、1、スタートぉぉ」。あ。いま掴んだ。間に合った。やれやれ。

と、しかしここで重大なミスに気づく。イヤフォンの左側から音楽が聞こえないのだ。そう、このAnker社製のBluetoothイヤフォン、時々片方が聞こえない時があって、その場合は充電用のドックに一度戻してから再度取り出して再生すると直るのだ。けれども充電用のドックは数十メートル後方のブルーシート上に置いたバッグの中にあって、私ももう走り始めている。ああああ、なんか最後ちょっとバタバタとしていたらこんなことになってしもうた。もうちょっと余裕を持っておくべきだったなあ。と後悔してもしかたない。右側だけでも音楽が流れていることに感謝しよう。

さて、今回のレースをどういうペース配分で行くかについてはここ数週間何度も検討を重ねていた。実は初マラソンを終えてしばらく経ってから約3ヶ月間、有料版にアップグレードしたランニングアプリにトレーニングメニューを作ってもらって、それに従って練習していた。1週間に3回のトレーニングは長距離走(時期によって10~32キロくらい)と、スピード走(キロ4分ちょっとで短い距離を全力で走る、その後休憩、というのを何度も繰り返す)と、リラックス走(ゆっくりしたペースで数キロから10数キロ)で構成されていた。それまではメニューなどを考えたことがなく、ひたすら長距離走とリラックス走しかやっていなかった私だが、そこにスピード練習が加わったのだ。

目標は4時間切りなので単純に4時間を42.2キロで割ると1キロ5分40秒くらいになる。この新しいトレーニングのおかげで20キロくらいのランニングならばキロ5分40秒のペースでも走れるようになった。けれどもトレーニング期間の3ヶ月のうち真ん中の1ヶ月くらいは左足カカトの故障でまともに練習できなかったし、42キロを同じペースはまず無理だろう。じゃあキロどれくらいにしようか。初マラソンの時の目標は「キロ6分ペースをとにかく守ること」だったのだが、25キロあたりでペースを少しずつ守れなくなり、最後はキロ7分手前まで落ちた。あの時よりは少しは成長している筈だから、キロ5分50秒にするか。よし。それで行けるところまで行こう。

参加者が58人しかいないので、スタートするとすぐにバラける。コースはスタート地点から荒川沿いを2.5キロ河口に向かって走って折返し、2.5キロ上流に向かってスタート地点に戻り、また折り返す。5キロの周回コースを8周するわけだ。最初に1キロちょっとを行って戻ってくるのを追加して全部で42.195キロ。端数の2.195キロを終えるともう周囲にほとんど人がいなくなる。

これはもういつもの多摩川の一人ランニングと何ら変わらんな。右耳だけに聞こえてくる音楽だけが頼りだ。前回はLove Psychedelicoのシャッフル再生に設定していたが、今回は私の全ライブラリからのシャッフル再生。細野晴臣→ヤプーズ→テイ・トーワ→Incognito→カーペンターズ→高橋幸宏→ブラジルのダンス音楽→竹中直人、と本当にランダムに流れてくるが、意外にどんなにスローな音楽でも(カーペンターズの「Yesterday Once More」とか)、どんな変な拍子の音楽でも(細野晴臣の「福は内 鬼は外」とか)走る妨げにならないことがわかった。なお、今回のマラソン中の4時間あまりでおそらく60~70くらいの曲を聴いたはずだが、気持ちが盛り上がったのは、THE HIGH-LOWSの「日曜日よりの使者」と竹中直人の「僕のお嫁さん」でした。

さて、最初の周回を終えて約7キロ地点。ここまで少し勢い余ってキロ5分40秒ペースになっていたのを反省して意識的に5分50秒ペースに落とす。たった10秒だけれど、こういうのが後半の脚に影響してくるのだ。5分50秒だ、5分50秒。2周目に入ってピッタリ5分50秒ペースになった。よし、これだこれ。いい感じだ。3周目の折返し、15キロ地点手前くらいで最初の補給食をポケットから取り出す。初めて試す「WINZONE」というフルーツ味のゼリーだ。何でもマグネシウムが入っていて足攣り防止にも役立つらしい。115キロカロリー。オレンジ味、パイナップル味、マスカット味の3つの味のお試しセットというのをAmazonで見つけたので先日買っておいた。

折り返し地点にある給水所の200メートルくらい手前で封を開け、口に流し込む。んー、まあ予想通りのなんというかカルピスの原液をゼリー状に固めたような濃くて甘い味。オレンジを食べたのかパイナップルを食べたのかマスカットを食べたのかはさっぱりわからない。むせそうになるので急いで給水所に置いてある紙コップの水を取って胃に流し込んだ。

5分50秒ペースを維持しながら3周を終えて4周目(17~22キロ)に入った。ここで細かいミスを犯してしまう。15キロ地点、25キロ地点、35キロ地点で「WINZONE」のゼリー、20キロ地点、30キロ地点で「スポーツようかん」を食べる予定だったのに、間違えて17キロ地点あたりで1つ目のようかんを食べてしまったのである。

いやたしかに細かいミスだ。そんなのどうでもいいじゃん、ってツッコまれそうだが、しかし長距離走は「いかに波風を立てずに、最初から最後までずーっと同じ気持ちを維持して、自分の体や心が「ん?なんかおれ、いつもと違うおかしなこと(=マラソン)やってるんじゃね?」と気づいてしまう前にゴールする」のがとても重要なポイントじゃないかと最近考えているので、こういう小さなミスを甘く見てはいかんのだ。しかしホンマにアホやなー。ついさっきゼリー食ったばっかりやん。なんで2.5キロ後にようかん食ってんねん。普通に考えても食い過ぎやろ。

だが、こういう感情の揺れも走りに影響しかねないので気持ちを押し殺し、4周目途中の19.5キロ地点の周回では何も食べないで5周目(22~27キロ)へ。ようやく半分か。そういえば一緒にレースに出ているKさんは、さっきすれ違ったとき歩いてたな。もしかして故障したんやろうか。大丈夫かな。この辺りになると、58人の走者はいよいよバラバラになっている。並行して開催された30キロ走やハーフマラソンに参加している走者が混じってきて、時々一瞬にして抜き去られていく。

6周目(27~32キロ)に入った。このあたりから河口側へ走る時の向かい風が気になり始める。今はまだいいけど、7周目、8周目あたりはキツいだろうなあ。向かい風ってすごくしんどいのに、だからって反対方向に走ってる時に追い風に体を押してもらってる感覚って薄いんだよな。不思議なもんだ。

と、このあたりで軽い尿意がやって来た。おかしいな。あれだけ事前にトイレに行ったのになんでだろ。もしかすると気温が低くて汗をあまりかいてないからなのか。まあでもまだ我慢できるな。9時半から走り始めて今はお昼時だ。河川敷はレースコースになっている道沿いに公園やグラウンドやサッカー場が並んでいて、日曜日だから少年野球や少年サッカーの試合がいくつも開催されている。それを見学するお父さんお母さんの人出もすごい。そんな中を、右耳だけで音楽を聴きながら、5分50秒、5分50秒とペース配分を心の中で唱え、一人で走る。

私のランニング仲間(先輩)たちがマラソンを走る時のアドバイスとしてしばしば「30キロまでは助走」「30キロまでは眠るように走れ」と言っている。前回のレースでは早くも25キロ地点からキロ6分のペースを守れなくなっていたが、今回は30キロ地点を過ぎてもまだキロ5分50秒ペース。前回は両方のふくらはぎに違和感が出始めていたが、今回はまだ何も出ていない。よし。自己ベストはいけるな。だけど、今からペースを上げてサブ4はやっぱり無理やな。ここは欲を出さずにひたすらペース維持や。

6周目の後半、上流側に戻る途中で、道の左側にあるぼうぼうに生えた草むらの中から、「カンカーン」というような何か大工仕事をしているような音が何度も聞こえてくる。左側のイヤフォンからは音楽が流れていないので外部の音が入ってくるのだ。おかしいな。動物や鳥ってわけでも無さそうだしな。走りながら左側を注意深く眺めていると、一部にブルーシートや段ボール箱が窺えた。そうか。ここには住人がいるんだな。ということはなんか家の補強とかやってるのかも。などと考えていると、住人の1人が道に背中を向けて「庭いじり」のようなことをやっているのが見えた。なるほど。衣食住が足りて趣味に興じる余裕が出てきた人なのかも知れんな。というように想像に耽ってしまうほど何も無い単調なコースなのだ。

7周目(32~37キロ)に入った。あと10キロや。32キロの折り返し地点で、棄権されたKさんが声援を送ってくれる。何せ給水所のおじさんと、途中地点で交通整理をしてくれるお姉さんくらいからしか声援をもらえないので心に沁みる。そして想像していた通り、河口へ向かう時の向かい風がツラく感じるようになってきた。

35キロ手前の折り返しで最後の補給。ランニングパンツの左ポケットに残った3つ目のゼリーを口に入れたが3種類の味のなかで一番不味い。思わず吐きそうになるがぐっと堪えて給水所の水で胃に流し込む。吐いたらあかん。これは食い物と違うんや。115キロカロリーを補給してくれる薬と思おう。結局それがオレンジ味なのかマスカット味なのかパイナップル味なのか、ゼリーのパッケージに書かれた小さな文字を読む気も起こらないので不明のまま紙コップと一緒にゴミ箱に投げ捨てた。

再び上流に向かう時にまた左側に並ぶブルーシートと段ボール箱でできた家々を眺め、そこでの生活を想像する。まだ5分50秒台は維持できている。これは奇跡的だな。しかしレース中盤に覚えた尿意は明確に大きくなってきている。どうしようか。幸い河川敷は簡易トイレが何箇所にも設置されている。入るか。でもなあ、トイレに行く時間のロスはまだしも、一回脚を止めたらもう走る気力が無くなるのが恐い。漏れそうというほどでもないから、やっぱりトイレは我慢しよう。

最後の5キロ、8周目に入る時に運営の方が設置してくれている大きなデジタル時計を見ると、3時間38分30秒くらいだった。あと5キロをキロ6分で行って30分。サブ4は無理だがこのまま行けば4時間10分切りは狙えるぞ。あと5キロや。ここで以前友人から教えてもらった「最後の5キロはいつも走っているコースを思い浮かべながら走る」作戦を開始した。これをすると、あとどれくらいでゴールになるかが想像できて気持ちが楽になるというので、前回のマラソン大会の時にやってみたら本当に一番苦しい最後の5キロを切り抜けることができたのである。

そんなわけでまたいつもの皇居周回ランを思い浮かべて、「ここでだいたい気象庁前、ここで首都高の入り口、ここでイギリス大使館・・・」とやってみる。ところが気持ちが全然盛り上がらない。「前回の試みをなぞって自分をごまかそうとしている自分を一段高いところから見ているもう一人の自分」がいるのである。なんとややこしい。そうか。初マラソンの初々しさや純粋さはもう取り戻せないんだな。走る自分を横から客観的に眺めている自分がいて、前回のマラソンとはもはや意識構造が全然異なっているんだ。これはもうあれだ。マラソンじゃなくてメタマラソンだ。複雑化した自分の心理状態に辟易しながら、泣く泣くこの作戦を諦めた。

8周目の折返し地点を過ぎて、残るは2.5キロ、またもや左側に並ぶブルーシートの家々を眺めながらそこに住む人々のことをぼんやり想像し、ふと腕時計をみるとキロ6分台に落ちていることに気づく。ペースを戻そうとするがスピードはもう全然上がらない。やっぱり最後まで5分50秒台で通すのは無理だったか。ゴールまであと2キロ。前回はここで目の前になぜかワンピースのようなウェアを着て走っている若い女性ランナーが出現し、その背中を追っかけているうちにゴールできたのだが、今回はそんな奇跡的な出来事も起こらず本当に誰も走っていない。

すがるような気持ちでシャッフルで流れている音楽に意識を向けると、こともあろうにこの大事な局面で、ハードコアなテクノミュージックが流れ始めた。いや、テクノは大好きなのだ。けれども、ただひたすらに心の平穏を求めているこの瞬間に、気持ちを掻きむしるように繰り返されるドラムマシンとノイジーなシンセサイザーの音。控えめに言っても不快だ。最後は我慢できなくなってイヤフォンを外してズボンのポケットに仕舞いこみ、4時間ぶりに両耳で外の音を聞きながら残りの1キロを走ってゴール。

結局タイムは4時間9分6秒だった。初マラソンの時の4時間24分48秒を15分以上縮められたという意味では大きな満足感を得られたし、サブ4突破という目標を来シーズン以降にうまい感じで残せたのも今後のモチベーション維持に繋がった。何よりも今回はふくらはぎも膝も最後まで痛まなかったのがうれしい。でも、今度こそは新型コロナウィルスが収束して、大きな大会でたくさんの人と一緒に走りたいです。